くにうみの先見

産業として成り立っていない農業

平均的に日本の農業は産業として成り立っていない。農家の平均耕作面積は一・八ヘクタール、稲作農家は一・五ヘクタール。農法が違うものの、外国に比べて際立って小さい。アメリカの約九八分の一、ドイツの約二〇分の一、イギリスの約三八分の一である。一・五ヘクタールの田から約一三〇俵(一俵は約六〇キログラム)の米が取れる。米一俵の価格は、自主流通米、玄米、うるち米等で、およそ一万四〇〇〇円だから、単純に計算しても、米から得られる総収入は一八〇万円程度。そこから、農薬、肥料、農機具などの費用を差し引けば、農業所得はせいぜい数十万円程度にしかならない。一年の農家の労働と投資の対価としてあまりに少ない。
米作りで農業所得が一〇〇〇万円を超えるレベルになるには、八郎潟の干拓地のように一五ヘクタール程度の面積が必要とされている。しかし、農地の集約化による大規模化や経営の高度化や多角化は例外的にしか行われていない。これでは、農業が産業として本格的に発展するのは難しい。 いまの農業就業人口の年齢別構成をみると、六十五歳以上の占める割合が五五%で、高齢化が進行している。一方で農業に主として従事する農業後継者のいる農家は五・六%にすぎない。現在三七五万人いる農業就業人口は、中学・高校新卒者の農業への就職率が一%にも満たないことから、今後も減少の一途をたどることが予想される。
日本の農業問題の本質は、土地と政治だ。戦後の農業政策は、不在地主の農地を小作人に譲渡した農地解放でスタートした。小規模零細な自作農が多数誕生し、農地解放の方針を明確にした農地法が、一九五二年(昭和二十七年)に施行された。農地法は、自作農主義による農地拡大、農業生産力の維持・向上を主な目的とした。農地の保有も使用も自作農と自作農主体の農業生産法人に限ることにした。また、農地の自作農以外への壊利移動と農地以外への転用を厳しく制限した。農地の権利移動には自作農の代表が多数を占める農業委員会が許可権限をもつようになった。
長子相続から均分相続への相続制度の変更も農地の保有をさらに細分化した。小さな農地を相続した農民の多くが、農地を処分した資金で子供に高等教育を受けさせ、その子供たちが都会へ出ていきサラリーマンになって高度成長を支えた。
戦前までの日本のムラは地主の土地保有と長子相続の長い歴史があった。イエによる個人の抑圧と地主の小作人支配を、農地解放と均分相続が打ち破った。しかし相続税もほとんどない戦前までの制度はイエを柱にして農地と耕作を永続的に保全する機能が高かった。農地解放と均分相続は、農地の細分化を推し進める強いカとなったが、農地法は、近代産業社会での事業の永続的な主体である株式会社組織や事業執行のためのパートナーシップ(民商法上の組合に近い)、さらには信託などの形態を認めなかった。民主化の仕組みはあるが農地細分化と経営零細化を止めて農業が産業として発展する装置はなかった。このことが農業衰退の大きな原因の一つである。
戦後は、国民が飢えないための米の増産が至上命題であり、国による米の全量買い上げを柱にし、平等に米を分配するための食糧管理制度(食管制度)が導入された。効率を重視するため、米の品種は農林一号など国定のものに統一され、戦前までのようにさまざまな品種を作ることは許されなかった。そうした国家管理の見返りに、政府は消費者米価よりも高い価格(生産者米価)で農民から米を買い取り、差額を財政で補填した。
こうした全国的な生産・流通・販売の画一化と効率化を進める組織として、農民を組合員とする農協組織が全国的に整備され、米の生産は大きく増えた。農協組織は、農林水産省を頂点とする中央集権的な上意下達の機関であると同時に、一人一票の意思決定メカニズムを通じて、生産者米価の決定や農地の処分制度、農産物の輸入規制、などの分野で自作農を中心とした個々の農家の利害を集約し、政治と行政に反映させる強力な政治組織となった。戦後の利益代表民主主義の代表選手といえるだろう。
一方、高度成長期には、農村から大都市部への急速な人口移動が起こり、都市周辺では農地の宅地化が進んだ。農民にとっては、農地の売却収入が増加したが、農地の減少が懸念され、農地の市街地への転用を厳しく制限する都市計画法の市街化調整区域などの制度および農振法(農業振興地域の整備に関する法律)が施行された。ただし、宅地転用などから大きな利益を得るためのさまざまな抜け道が用意され、政治的な働きかけによって農地を売却する農家も多く出てきた。そうした虫食い的な開発によって、都市近郊と農村の土地利用が無秩序なものになり、いまも産廃施設が田園地帯に突然出現したり、景観が破壊されたりする例が全国で見られる。
都市圏において、優良な市街地がきちんと供給されない大きな理由は、農地を都市計画に基づいて計画的に転用することが難しいからだ。こうしたゆがんだ面を作りながらも、全体としては、農地の売買・利用と他の用途への転用の両面を厳しく制限する体制ができた。
日本の農業が曲がり角を迎えたのは、一九七〇年に米の減反が始まったときだ。国民に米を行き渡らせる政策は増産によって達成されて米が余りだし、それまで増産に励んできた農家に対する耕作休止(減反)の実質的な強制が始まった。減反奨励金などの補助金依存の農家経営の始まりだった。一方で減反に反発した農民などによる米の流通の自由化(自主流通米)が始まり、食管制度はしだいに形骸化し、食糧管理法は一九九五年にようやく廃止された。
一方では消費者のニーズに基づく米作りも始まったが、減反奨励金が得られるため過剰な田が他の作物のために転換されず、常に過剰生産能力による米価下落と財政支出の悪循環が三〇年以上にわたって続いてきた。減反政策は今年でようやく終わるが、ほかの先進国にはみられない政治的な仕組みによって農業が衰退し、農村と地域、そして自然環境が崩壊の危機にある。

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